人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。スタイリストの大草直子さんの第2回です。新しい価値観を経験した米国留学から戻り、猛勉強して大学に合格。そして憧れの雑誌の編集部に幸運にも採用が決まります。必死で仕事を覚え、充実していたある日、突然会社を辞めて南米に旅立ったのでした。
(1)明るく活発な少女時代の「不登校」
(2)情熱注いだ雑誌の仕事を辞め、旅へ ←今回はココ
(3)新しい家族の形、自由な生き方
16歳のときに、小さな日本の、幸福で閉鎖的な居場所から飛び出しました。向かった先は、アメリカ西海岸の小さな町、アタスカデロ。ホームステイしていた家の庭には野生の鹿が現れるような、のどかで正直あまり特徴のない場所でした。町にも学校にも、日本人は1人もいなかったと思います。そのことにとても安心し、町に1つしかない公立学校に10カ月間通いました。初めての海外、初めてのアメリカ。金髪でブルーアイズの子はほとんど皆無。インド系、ヒスパニック系、アラブ系、アフリカ系など、実にさまざまな顔、顔、顔。多感な時期に、世界は多種多様の「美しさ」でできているのだ、と認識できたことが、15年以上たった後の私を幸せにしてくれることを、もちろん当時の私は知りませんでしたが。
英語は、今でも思いますが、単なる道具。初めは大変でしたが、さすがスポンジのように吸収力のある16歳。2カ月もたつと難しい歴史の授業も、時に辞書を引けば理解できるようになっていました。敬虔(けいけん)なクリスチャンだったホストファミリーのルールにのっとって生活していたので、私の日常は真面目そのもの。そう、「NO PARTY, NO BOY」。やることもなかったので、ダウンタウンにあったヴィンテージショップに頻繁に通い、合唱部に入部し、目立たない、というアジアの女の子として毎日を送っていました。
自分が何かを積極的に発信しなくては存在すら雲のようにかすんでしまうという、この目立たない、という「初めての経験」は、実はとても心地よいものでした。6歳から友人関係が変わらなかった私にとって、それは新鮮で楽しいことだったのです。アメリカの田舎町に滞在したことで、世界は広いんだ、日本の小さな学校で何かあったら、私には逃げる場所がたくさんあるんだ、と安堵したのでした。