遠い知らない世界の話を聞いているようだった
事情聴取は1時間以上に及んだ。最後に会った日、最後に電話をした日、父の病歴、預金額など事細かに聞かれたが、私はほとんど何も知らなかった。父は私にとっては父だったから。それ以外のことなど、知らなくても良かったのだ。これまでは。
警察によると、郵便受けに1週間前からの新聞がたまっていたので、亡くなったのはその頃だろうということだった。洋服がベッド脇に置かれ下着姿だったこと、他の部屋の電気はすべて消えており自室の電気とエアコンだけがついていたことから、就寝しようとして倒れ、そのまま事切れたのではないかということだった。
「当地でもこの冬で一番寒い夜でした」と若い警官は言った。
そうだろう。私もその夜は寒かった。東京も寒かった。覚えている。
翌朝、空港から警察署に直接行くと、現場検証の写真を見せられた。
このように倒れておられました。このようなお顔でした。部屋の様子はこうでした。バッグにはこんなものが入っていました。現金はこれだけお持ちでした。預金通帳の内容はこうです。携帯電話の発信記録はこうです。
……なんだか遠い知らない世界の話を聞いているようだった。
死んでいた父の手足は、棒きれのようだった。最終的に体重は38キロだったと本人がレシートの裏に書いていた。
「今まで一生懸命に生きてこられたのでしょう」と年配の警官が言った。
ご遺体を確認していただけますか。そう言われ、安置室に向かう。既に葬儀屋さんによってきれいにされ、お棺に入れられた安らかな父の顔を見て初めて、お別れが来たのだと分かった。
「お父さん、今までよくがんばったね」
それしか言えなかった。涙は出なかった。
慌ただしく過ぎていった2日間でつらかったこと
葬儀場には内金が入れられ、納骨堂も購入してあった。僕たちが死んだらここに連絡してここにお骨を入れるように、とあらかじめ聞いていたけれど、まさかそんな日が急に来るとは思ってもいなかった。
葬儀、火葬、納骨と2日間は慌ただしかった。コロナ禍でありながらもごく少数の親戚が来てくれて、父の若い頃の思い出話を聞き、心慰められた。
でも、この悲しみや不安を、同時進行で一緒に受け止めてくれる人がいないことがつらかった。ひとりっ子で遠距離でバツイチ独り暮らしでパートナーも子どももいないというのは、こういうことなのだ。