時間に追われる忙しい毎日も、仕事でうまくいかないことがあったときも、「あの人」のことを思えば頑張れる…。いくつになっても「好き」は私たちにポジティブなパワーを与えてくれます。何かと責任を負う場面が多くなった今のほうが、日常とは別の世界にいる誰かを愛で、夢中で追いかけるひとときがより尊さを増すのではないでしょうか。ARIA世代の女性たちが、大好きな「推し」への愛をたっぷりと語ります。
「そろそろ仕事で疲れたなあ、パワーが欲しいなと思ったときに、『ママはあした東京に行ってくる!』と息子に伝えて、日帰りで太郎に会いに行くんです」
静岡市で暮らす町田真紀さんは年に数回、自宅マンションの下から発着する高速バスに乗り込む。約3時間で渋谷駅に到着、そこから20分ほど歩いて向かうのは、南青山の岡本太郎記念館。希代の天才芸術家、岡本太郎(1911~96)が亡くなるまでの42年間を過ごしたアトリエだ。
等身大マネキンに「元気だった?」
記念館1階のサロンには、個性豊かな作品に囲まれるようにして、岡本太郎の等身大のマネキンが置かれている。生前、本人から型を取って作られたリアルな姿だ。「私が行くときって、なぜかいつもそれまでいた人たちが帰っていくタイミングで、周りに誰もいなくなるんです。それで、『来たよ、太郎! 元気だった?』って話しかけます。そうすると、『元気だよ。そっちはどう?』と返してくれます(笑)」
町田さんが岡本太郎に興味を持つようになったのは2年前。たまたま手に取った1冊の本がきっかけだった。
「夫の転勤で10年ほど前に2年間大阪に住んでいたことがあって、万博記念公園にある『太陽の塔』も一度だけ見たことがありました。でもそのときは大阪のシンボルだよな、くらいの感覚で、特に思い入れもなくて。
久しぶりに大阪に行きたいね、また太陽の塔を見たいねという話を家族でしていたときに、図書館で『「太陽の塔」岡本太郎と7人の男(サムライ)たち』という本を見つけたんです。大阪へ行く前に読んでおくと面白いだろうなと思って借りてみたら、急に岡本太郎に興味が湧いてきました」
その本は、1970年の大阪万博でテーマ展示プロデューサーを務めた太郎の下、太陽の塔を含めた巨大プロジェクトがいかにして進められたのか、関係者の証言を通して振り返ったもの。町田さんがイメージしていた岡本太郎といえば、小学生の頃にテレビで見た、「芸術は爆発だ!」でおなじみの「ちょっと変わった人」。しかし、太陽の塔の建築設計や構造設計の担当者、テーマ館の地下展示ディレクターなど、実務の責任者たちが語る彼の人物像は、意外なものだった。