歌手にさえならなければ、大切な人を失うことはなかった…

 確かに極貧生活から脱出することはできましたが、当時は給料制だったので、しばらくは同世代のサラリーマン程度の収入でした。それにレコードが売れれば、邪魔してやろうと考える人が出てくる。損得勘定で近づいてくる大人もたくさんいました。週刊誌などで根も葉もない不名誉な話を派手に書き立てられ、愕然(がくぜん)とするなんてことも日常茶飯事でしたが、悔しくても弁明の機会は与えられない。有名税といわれても納得がいかない。光が強ければ影は濃くなる。それが世の常なのだと思い知らされました。

―― ご家族を鹿児島から呼んで一緒に暮らし始めたのは24歳のときだったのですね。

 ええ。東京・世田谷に借家を用意して。あれはうれしかった。翌年には『おふくろさん』も大ヒットしまして、この世の春を迎えたような心持ちでした。ところが母との暮らしは2年弱で終わりを迎えてしまった。当時、私は会ったこともないファンの女性から婚約不履行で訴えられていました。裁判で潔白が証明されたのですが、家を訪ねてきた女性にお茶を振る舞っていた母は責任を感じて自死してしまい……。歌手にさえならなければ大切な人を失うことはなかったのにと運命を呪いました。歌を歌う気になどなれなかった。だって母のために歌っていたわけですから。

 でも私にはきょうだいを養っていく義務が残っていました。妹は高校生だったし、弟はまだ中学生でした。突如として母がいなくなり、ポッカリと空いてしまった2人の心の穴をどう埋めていったらいいのか分からなかった。仕事から家に帰ると、何をするよりも先に「今日は学校でどんなことがあった?」と声をかけていたのを覚えています。あの頃が人生で一番つらかったかもしれません。そんなとき、出合ったのがショーペンハウアーの本だったのです。