人生における「逆転の一冊」を聞くリレー連載。今回は講談師・神田伯山さんの虎の子の一冊です。「身の置き場がなく、内にこもっていた」という中学時代に、伯山さんが人生で初めてハマったものは、プロレスでした。プロレス界の不世出の大スターを描き、伯山さんの心を動かした一冊とは?

(上)神田伯山の一冊 空っぽだった少年をプロレスが救った ←今回はココ
(下)神田伯山「語り継がれてほしいジャイアント馬場の一生」

 ある時は講談師六代目神田伯山として1000人クラスの大ホールの観客を魅了し、また、ある時はテレビ、ラジオのレギュラー番組に出演し、時代劇の語りやCMのナレーションを務める。伝統芸能の枠にとらわれず活躍する伯山さんを通して、初めて講談を知ったという人も少なくないだろう。舞台に置かれた釈台の前に座り、張り扇を叩きながら独特の調子で歴史上の物語を読む講談は、江戸の末期から明治にかけて全盛を迎え、講談師の数も江戸だけで800人を超えていたという。昭和には20数人にまで落ち込んでいた講談の世界に、伯山さんは強烈な光を当てている。

大学卒業後の2007年、三代目神田松鯉に入門し、神田松之丞の名をもらう。20年2月には、9人抜きで真打ちになると同時に、44年間空席だった大名跡「伯山」を襲名した
大学卒業後の2007年、三代目神田松鯉に入門し、神田松之丞の名をもらう。20年2月には、9人抜きで真打ちになると同時に、44年間空席だった大名跡「伯山」を襲名した

落語でも、講談でもなく、プロレスだった

―― 昭和43年には、少し前まで講談師は東西合わせて24人だったと聞きました。伯山さんが入門のときにも東京で60人ほど。滅びる危険のあった講談の世界へ飛び込むことに躊躇(ちゅうちょ)はありませんでしたか?

神田伯山さん(以下、敬称略) そりゃあ、講談に入門するなんて大博打(ばくち)ですよ(笑)。講談は、今でこそまあまあ光は当たっていますが、当時は一般の人にはほとんど知られていない芸能なわけですし、講談だけでごはんを食べていけるというのは非常に稀有(けう)なこと。そもそも物語をしゃべって暮らしていけるなんてファンタジーみたいですよね。

 僕が伝統芸能に興味を持つきっかけは、高校時代にラジオで三遊亭圓生(えんしょう)師匠の落語を聴いたことでした。やがて立川談志師匠に心酔するようになり、談志師匠が好きなものはすべて吸収したいということから講談を聞き、講談の面白さに引かれていったんです。物語はよくできているし、講談師の技術もすごい。それなのにお客さんは少なく、講談師も閉鎖的な感じに思えた。なんでこんなにすごい世界なのに人に伝わらないのか。自分が講談師になって面白さを広めようと決心したのです。

―― 伯山さんが最初に興味を抱いたエンターテインメントは落語で、それから講談にも引かれていったということですか?

伯山 いや、僕が最初にハマった興行は、落語でもなく、講談でもなく、プロレスなんですね。4歳上の兄の影響で小学生の頃からテレビのプロレス中継を見ていたし、マンガの『キン肉マン』やテレビゲーム機でも「スーパーファイヤープロレスリング」とかプロレスものに夢中でした。本当にのめり込んだのは中学時代。あの頃の僕には何もなかったんです。

 他の人より秀でているものはないし、学校の勉強も特にできるわけじゃない。女性にももてなかった。僕には何もなくて、学校にいても身の置き場のない感じがしていました。それでいて他の人とは違うという変な意識はあるんですよね。それでどんどん内にこもっていくなかで、プロレスに慰められていたんです。

 そもそも僕は、ちょっとバカにされていたり、軽く扱われていたりしたものが、世間を認めさせていく力が好きなんですね。今でこそマンガは完全な市民権を得ているけれど、かつて藤子・F・不二雄の下積みの頃には、今の世間の空気とはだいぶ違ったようです。プロレスもしかりで、テレビの地上波でいくら人気があっても、最後の最後では世間は「プロレスを認めない」という壁はあったと思います。

 でも僕にとっては、マニアックで世間からちょっとバカにされている世界の面白さを知っているんだという、選民意識みたいなものを抱くことができたんです。空っぽだった僕を精神的に救ってくれたのがプロレスだったんです。