人生における「逆転の一冊」を聞くリレー連載。今回はデヴィ夫人こと、デヴィ・スカルノさんの虎の子の一冊です。今年80歳を迎えたデヴィ夫人がインドネシアのスカルノ大統領と運命の出会いをしたのは19歳。華やかな人生を送ってきたかに見えるデヴィ夫人にも貧困、最愛の母・弟との別れ、そして社会の激動に巻き込まれた苦難の時代がありました。10代から今に至るまで心に刻まれる言葉が記された、運命の一冊とは?

(上)貧しさと敗戦経験は神様からのギフト
(下)人生は戦い。何度でもやり抜く ←今回はココ

―― 前回、逆転の一冊として『マリー・アントワネット』(シュテファン・ツヴァイク著)を挙げてくださいました。この本に載っていた絵で、印象に残っているものがあるそうですね。

デヴィ夫人 本の口絵にいくつもの肖像画がありますでしょう。きゃしゃで美しく着飾った肖像画だけではなく、処刑台に向かうマリー・アントワネットを描いたスケッチもあって。白髪の老女のようになっていながらも、背筋を伸ばし毅然と顔を上げている姿です。それがとても記憶に残っていて、母が亡くなったときにわたくしも母を描きました。記憶に、心に、母の姿をとどめておきたいと思ったのです。

デヴィ夫人が『マリー・アントワネット』を読んだのは、17、18歳の頃。まだテレビがない時代で、読書が唯一の楽しみだった。トルストイ、スタンダール、バルザックなどによる世界的な名著を読みあさっていたという
デヴィ夫人が『マリー・アントワネット』を読んだのは、17、18歳の頃。まだテレビがない時代で、読書が唯一の楽しみだった。トルストイ、スタンダール、バルザックなどによる世界的な名著を読みあさっていたという

母を亡くした2日後に弟も亡くす

デヴィ夫人 これまでの人生において、母と弟の死は、最もつらかったことです。

 インドネシアに渡ったわたくしの元に「ハハキトク」の報が弟から届いたのは、1961年12月。帰国したときに母の意識は既になく、それから40日間の介護もむなしく帰らぬ人となりました。

 さらに2日後、当時、早稲田大学の学生だった弟が自ら命を絶ったのです。人にだまされて、わたくしが母と弟のためにためていたお金をすべて失い、悩み苦しんでいたことを後になって知りました。今のように簡単に国際電話をかけられる時代ではなく、自分の新しい生活に精いっぱいで、弟の悩みに気づいてあげることができなかった。

 最愛の二人を亡くしたことで、わたくしには日本への未練やしがらみはなくなりました。1962年3月3日、大統領官邸のモスクで改めて結婚式を行いました。元首との結婚にあたって二重国籍はあり得ませんから、日本国籍から除籍の手続きを行い、インドネシア国籍を取得して、根本七保子から、大統領がつけてくださったラトナ・サリ・デヴィ・スカルノになったのです。サンスクリット語で「宝石の精なる女神」という意味です。

―― わずか3年後、1965年に軍事クーデターが起き、状況が二転三転するなかで、スカルノ大統領は実権を奪われていきます。

2020年3月18日まで松屋銀座8階イベントスクエア(東京都中央区)で「傘寿記念 デヴィ・スカルノ展 わたくしが歩んだ80年」を開催中。波乱に満ちたデヴィ夫人の生涯をたどることができる。スカルノ大統領が熱烈な愛をつづった手紙なども展示されている
2020年3月18日まで松屋銀座8階イベントスクエア(東京都中央区)で「傘寿記念 デヴィ・スカルノ展 わたくしが歩んだ80年」を開催中。波乱に満ちたデヴィ夫人の生涯をたどることができる。スカルノ大統領が熱烈な愛をつづった手紙なども展示されている