「狂気の沙汰」と言われてもジャカルタへ

―― デヴィ夫人は大統領の指示で日本に戻って長女を出産。さらにパリに亡命されています。マリー・アントワネットにも人生をかけた「ヴァレンヌ逃亡」事件がありました。命の危険と向き合う中で、夫人にとって「覚悟の瞬間」はいつだったのでしょう。

デヴィ夫人 スカルノ大統領の危篤の報を聞き、インドネシアのジャカルタへ向かったときです。パリに亡命していたわたくしと娘には、幽閉状態に置かれた大統領の状況を知るすべがありませんでしたが、AP通信から連絡が入り、大統領の危篤を知ったのです。当時、多くの部下が捕らわれてしまい、なかには死刑宣告を受けた人もいました。

 スカルノ大統領の元へ行こうとすると、パリの友人たちには、「行ったら今の政権に捕まって絶対に殺される、狂気の沙汰だ」と止められました。

スカルノ大統領と結婚をしたときに「女性として幸せになることを追うのではなく、大統領夫人としての人生を全うしよう」と決意したのは、『マリー・アントワネット』を読んだことが影響していた
スカルノ大統領と結婚をしたときに「女性として幸せになることを追うのではなく、大統領夫人としての人生を全うしよう」と決意したのは、『マリー・アントワネット』を読んだことが影響していた

人生最大の危機にもらった一通の手紙

 その時のわたくしは「殺されることは名誉」と思っていました。ただ、殺されるならそれをきちんと正確な事実として歴史に残したいと思いましたので、スカルノ大統領を崇拝していたオランダの記者、ウィリアム・オルトマン氏に同行してもらいました。しかし彼は、パリからジャカルタに向かう途中、タイ・バンコクで飛行機を乗り換えるタイミングで飛行機から引きずり降ろされてしまいました。

 人生最大の危機だったと言ってもいいかもしれません。そのときに、飛行機の乗務員の方が手紙を渡してくれました。当時の小学館編集長・林四郎さんからの手紙で「お気持ちはかりしれません。でも、どんなことがあっても日本の女性であるという誇りと威厳を最後まで保ってください」と書いてあったのです。 その手紙は、無事にジャカルタに着いて以降、わたくしのバイブルとなりました。