クリムトは、1862年に彫金師の子としてウィーンに誕生。14歳で美術工芸学校に入学し、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けました。在学中から壁画制作などの仕事を請け負い、卒業後に「芸術家カンパニー」を開業。芸術家カンパニーは、今でいうところのデザイン事務所。若くしてウィーンのブルク劇場の装飾、ウィーン美術史博物館の装飾などの大きな仕事を得て成功を収めました。

保守的な組織から「分離」し、新たな芸術活動を目指す

 「クリムトは、次第にウィーンの保守的な美術界に疑問を抱くようになります。1897年には、『分離派』を結成し、会長に就任。保守的な美術家組合(アカデミー)からの“分離”は、既に1892年にミュンヘンの進歩的な芸術家が実行していました。クリムトは、それに倣ったことになりますが、才能ある人物が集まった『ウィーン分離派』のほうが『ミュンヘン分離派』よりもはるかに著名になりました。ウィーン分離派は、いわば同時代のパリにおける『印象派』のようなもの。ただし、モネやルノワールといった画家が中心だった印象派とは違い、建築家や工芸家たちにも恵まれたウィーン分離派は幅広い活動ができました。

 分離派の第一回展覧会には多数の人が集まり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も足を運んだほど、注目を集めたそうです。ウィーン分離派は、展示施設である分離派会館(『第九』をイメージして制作した『ベートーヴェン・フリーズ』を所蔵)を建設するなど、順調に活動を続けました。しかし1903年に建築家でデザイナーのヨーゼフ・ホフマンらが『ウィーン工房』を設立したことにより、クリムトは分離派メンバーと対立。1905年、43歳で分離派から脱退しました」(千速さん)

 クリムト最盛期のこの頃(38~48歳頃)に描かれた作品は、金を多用したことから「黄金様式」と呼ばれています。代表作の一つが、油彩画で初めて本物の金箔を用いた作品とされる『ユディトⅠ』です

グスタフ・クリムト『ユディトⅠ』
1901年/油彩・キャンバス/ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵  (C) Belvedere, Vienna, Photo: Johannes Stoll/「クリムト展 ウィーンと日本 1900」に出展
「ユディトは旧約聖書続編に登場。敵の将軍の首をはね、ユダヤの民を救った美女です。薄っすらと閉じた目、わずかに開いた唇、片方だけ見えた胸などに強い官能性を感じさせ、まさにファム・ファタル(宿命の女)のイメージ。一方で右下に描かれる敵将の首にはグロテスクさがありません。いかがわしく思われがちのクリムトでしたが、このような気品もありました」(千速さん)