難病の母の介護と育児のために、長年続けた保健師の仕事を退職した加倉井さおりさん。実家に通って母のケアをするうちに講師の仕事の依頼が増え、ついに会社を立ち上げる決断をした。仕事の合間を縫って介護に通った日々の後には、予期しない別れが待っていた。

(上)難病の母と育児のダブルケア 介護離職から思わぬ起業へ
(下)母をみとった父との突然の別れ 残された形のないギフト ←今回はココ

相次いだ両親のみとり。残してくれた学びの大きさに気づいた
相次いだ両親のみとり。残してくれた学びの大きさに気づいた

 神奈川から茨城の実家に戻り、8年間の入院の後に、母は亡くなった。最期をみとったのはずっと付き添っていた父だった。

 「母が入院した当初は、父は朝も晩も病院に行って、母の顔や手を拭き、かいがいしく世話をしていました。父は定年退職した後、母が心配で再就職する気持ちになれなかったのでしょう。若いときはけんかもしていたのに、時を重ねると夫婦はこうなるのだなあと思いました

 何年かして、たまたま仕事を父に紹介してくれた人がいた。「この先、母のこういう状態がどのくらい続くか分からないし、毎月の入院費もかかる。自分の将来のことも考えたのでしょう。パートで仕事を始めたんです」

 再び働き始めた父は、仕事が終わってから病院に行くようになった。合間には地域の老人会や子ども会で活動をしたり、知人と釣りに行ったりと自分の生活も少しずつ楽しんでいた様子だった

 「母が亡くなって、父には『お父さん、本当にお疲れさまでした』とただただ感謝でした。夏に初盆の法事をしたときは『知り合いのお寺が遺骨を預かってくれるのでお墓はいらない』などの話も聞いたり、これからのことをいろいろ話したりして楽しく過ごしたのです」

 それからわずか3カ月ほど後。「夕方、買い物に出たときに携帯が鳴りました。父の携帯からだったので出てみると、父ではなく茨城の病院からでした。『お父さんが自転車で交通事故に遭い、搬送されました。緊急手術をしますが同意をいただく必要があるので、至急こちらに向かってください』と……」