病気を未然に防ぎ健康な生活を送るために役立つ仕事がしたい。保健師の道に進んだ加倉井さおりさんは、3人の子育て中に突然の母の難病でダブルケアに直面。勤務先を退職して介護と育児に専念するが、思わぬことから起業へと踏み出した。医療の専門家である保健師が家族の病気と介護に直面して得た学びとは何だったのだろうか。

(上)難病の母と育児のダブルケア 介護離職から思わぬ起業へ ←今回はココ
(下)母をみとった父との突然の別れ 残された形のないギフト

加倉井さおりさんは保健師として18年勤務した後、難病の母の介護と育児のダブルケアから退職。その後、ウェルネスライフサポート研究所を設立した。
加倉井さおりさんは保健師として18年勤務した後、難病の母の介護と育児のダブルケアから退職。その後、ウェルネスライフサポート研究所を設立した。

 病気にかかってから治療するのではなく、病気にならないように健康維持・増進に取り組むのが「予防医療」。高齢化に伴い医療費が増えている日本では重要性が増している。その予防医療を担う代表的な職業が保健師で、地域住民や企業などを対象に健康相談や保健指導を行うのが主な仕事だ。

 保健師や看護師など専門職向け人材育成事業や、一般個人・官公庁・企業向けの健康支援研修などを手掛ける会社の代表を務める加倉井さおりさん(52歳)も、以前は一人の保健師として働いていた。だが、まだ60代だった母が突然、難病を患った。当時2歳、6歳、10歳の3人の男の子を抱えて、育児と介護のダブルケアに直面。「母と子どもたちとの時間を大切にしたい」と退職したが、介護と仕事は思わぬ方向に進んでいった。

「糖尿病という病気があるなんて知らなかった」入院患者

 加倉井さんが保健師を志したのは高校生の時だった。「たまたま見た市の広報紙に赤ちゃん健診の記事があったんです。赤ちゃんが好きだったので、母子保健の仕事がしてみたい、保健師になりたいと思って調べたら、まず看護師の資格を取ることが必要だと知りました」

 実家のある茨城県の、筑波大学医療技術短期大学部(当時)で3年間看護を学び、さらに保健師の専門課程を神奈川県立看護教育大学校(当時)で1年間学んだ。

 看護師の病棟実習では、「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」と思うような病状の患者に接することがあった。

 「特にショックだったのは、夜の商売をしているという50代くらいの男性の入院患者でした。糖尿病の合併症が進み、腎臓の機能が悪く、視覚障害もありました。看護師に反抗的な態度だったので、最初は怖かった」。その男性がある日、実習生の加倉井さんに「おまえ、将来はどうするんだよ」と問いかけた。

 「保健師の資格を取って、病気を予防するための仕事がしたいんです」と加倉井さんが答えると、男性は「そんな職業があるのか……」とつぶやいた。

 「複数の合併症を抱えているその男性は『俺はこんなことになるまで、この世に糖尿病という病気があることも知らなかった』と言うのです。『そういう仕事は大事だ、ぜひ頑張ってやれよ』と励ましてもらいました」

 卒業後は、新設されたばかりの神奈川県の財団法人に就職。保健師として企業や自治体向けに健康セミナーの企画や講師の仕事をするほか、健康づくりのための会員組織の運営、会員誌の編集・広告営業、提供ラジオ番組の企画まで担当。次第にやりがいを感じ始め、忙しく働きながらも29歳、33歳、38歳で3人の男の子を出産。リーダー職となり、チームをまとめながら仕事と家庭の両立に奔走していた。

 出産のときは、茨城の実家に住む母が産後の手伝いに来てくれた。ただ、まだ60代後半なのによく転び、動作が少し緩慢なのが加倉井さんは気になっていた。

 ある日、茨城の実家で宅配の荷物を受け取った母は直後に玄関で転び、夕方に父が戻ってくるまで起き上がることができなかったと聞かされた。「これはおかしいと大学病院で診てもらいました。診断結果は、脊髄小脳変性症。小脳の萎縮によって運動機能が徐々に失われていく難病です」

 病気の予防がしたくて保健師の職を選んだのに、大事な家族が難病になったことに加倉井さんは大きなショックを受けた。ちょうど定年退職を迎えた父が再就職せずに家で母を見守ることにして、しばらくたったある日のこと。手押し車につかまってトイレに行こうとしていた母が真後ろに転倒してしまったのだ。