もともとモデルを目指していたわけではなかった

 敦子さんがモデルとしてのキャリアを築き始めたのは、大学生の頃。

 「最初は、友達に誘われてアルバイト感覚で始めたんです。モデルになりたいとか、芸能界に入りたいとか思っていたわけではなく、高校生の頃から客室乗務員などになって航空会社で働くことを夢見ていました。小さな頃から本や言葉が大好きで、言語に興味があったので、英語を生かした仕事がしたいと思っていたんです。高校生のときには海外留学にも行き、文系の大学に入り、その夢を追うつもりでいました」

 ただ、大学入学と同時に敦子さんの人生が、想像もしていなかったほうに急速に向かい始めた。

 「特に他にやることもないし、と軽い気持ちでモデルの仕事を始めてみたら、すぐにいろいろとお仕事をもらえるようになったんです」

 敦子さんは、関西生まれ関西育ち。大学も関西にある大学に通っていた。東京の出版社から刊行されていたファッション雑誌などで、レギュラーモデルとして活動するようになり、仕事と学校のために、東京と関西を行き来する生活を続けたという。

 「今みたいにデジタルカメラではなく、フィルムカメラで撮影が行われていた時代ということもあり、撮影にすごく時間がかかっていたんです。特に当時出させていただいていた“赤文字系”の雑誌は、誌面に掲載する写真が多く、1日100カット撮影や、100体のコーディネートに着替えるなんてことも頻繁にありました。次の日の朝から大阪で仕事があるのに、東京での撮影が深夜まで終わらず、予約しておいたホテルの部屋に1歩も踏み入れないでそのまま新幹線に飛び乗って大阪入りするといったこともよくありました」