世界的なトップメゾンのコレクションを彩る服。そこに使われる布には日本で作られたものも少なくない。梶原加奈子さんはそうした布を生みだす繊維工場とマーケットとをつなぐべく、北海道と東京を拠点に、グローバルに活躍するテキスタイルデザイナー兼クリエーティブディレクター。日本産のテキスタイルの魅力を世界に発信したいという、「勝手な使命感に突き動かされて走ってきた」と、新たなプロジェクトも立ち上げた梶原さん。その一筋縄ではいかないキャリアとは?

(上)世界的デザイナーの挫折 ローンを組んで留学したのに… ←今回はココ
(下)「よそ者」が工場で働いて得た信頼 日本の布を世界へ

夢を諦められず、住み込みで働いて道を探す

 「明治生まれの祖母と両親に『普通の学校を出て結婚し、子どもを産んで穏やかに暮らすのが女の幸せ』と言われながら育ちました」。柔らかな表情でそう切り出した梶原加奈子さん(48歳)。「けれど実際の私は、こうと決めたら聞かない『暴れ馬』(笑)。親の望みとは正反対の人生を歩んできました」

 幼い頃から自分の考えを表現したい気持ちが強く、絵が得意だった梶原さん。進路を考え始めた中学生の頃、心に抱いたのはデザインを仕事にしたいとの思いだった。高校時代に通った美大進学専門の予備校で、学院長から「女性でも長く続けられる」とテキスタイルデザインを勧められ、染織デザイン科がある多摩美術大学を志すも「東京に出て、何者になるつもりだ」と両親は激高。参考書を投げ捨てられるほどの猛反対に遭い、やむなく地元札幌の短大に進んだが夢を諦め切れず中退した。

 直後に飛び込んだのは時給がいい分、仕事がきついフェリーの住み込みのアルバイト。「大学受験の費用を稼げ、親の束縛からも逃れられてちょうどよかったんです」

 娘の本気度を知った両親は、教員免許取得を条件に渋々進学を許可。多摩美術大学への合格を果たした梶原さんは「絶対に自分の道をつくり出す」との決意を胸に、入学早々アパレルやインテリア各社のリサーチを開始。鮮やかな色使いに魅力を感じたイッセイ ミヤケ(東京・渋谷)の服づくりに憧れ、入社試験に向けて準備を始める。教員免許取得の勉強と並行しつつ、作品制作に励む4年間を送った。

 5次に及んだ就職試験を突破し、希望通りテキスタイルデザイナーとしてイッセイ ミヤケに入社すると翌年、新ブランドの設立メンバーに抜てきされた。帰宅は連日深夜の忙しさだったが、「『2:8の法則、チームの中で2割が全体を支える。どちらを選ぶかは自分次第』という上司の言葉を聞き、当然、前者を目指そうと仕事に打ち込みました」

自身のブランドを指揮するほか、日本各地の繊維産地の支援、アパレル企業へのデザイン提供などを行う、テキスタイルデザイナー兼クリエーティブディレクターの梶原加奈子さん
自身のブランドを指揮するほか、日本各地の繊維産地の支援、アパレル企業へのデザイン提供などを行う、テキスタイルデザイナー兼クリエーティブディレクターの梶原加奈子さん