鍛えられた初任地、熊本放送局時代

 初めて配属されたのは熊本放送局。「振り返ると失敗の連続でした。アナウンス技術はゼロからのスタート。15分のニュースを読み終えるとデスクがスタジオの外に仁王立ちしていて、『今の点数は40点だ』とよく怒られていました」。間違いを指摘する視聴者からの電話を自分で受けて、「すみません、それ私です」と謝ることもあった。

 女子校育ちで実家を出て地方での一人暮らしも初めて。職場は想像していたより厳しく、うまくできない自分に悔しくて泣いた夜もあったが、アクセント辞典を持ち歩き、先輩アナの読みを録音して、外国語を習得するように美しい日本語を繰り返し練習した。「下手でしたけど地元の方に育ててもらったんです。いまだに熊本の皆さんとはご縁が続いていて、手紙をいただいたり、スイカを送っていただいたりとありがたいです」

情報番組への出演を楽しみにしてくれた母

 その後、大阪放送局を経て29歳で東京勤務になった。「首都圏ネットワーク」「NHKニュース7」のキャスターなど報道番組を中心にキャリアを積みながら、一般企業に勤める男性と結婚した。

 「あるとき上司に、このまま報道を続けたいかと聞かれたことがありました。新しい情報番組が始まるけど興味があるかと。それを母に相談したら、『ニュースもいいけど情報番組をやると幅が広がるし、あなたの明るいキャラが出るわよ。見るのが楽しみだわ』と背中を押してくれたんです。その番組が『あさイチ』でした」

「あさイチ」で現場から明るくリポートする内藤さん
「あさイチ」で現場から明るくリポートする内藤さん

 ところが、放送を楽しみにしていた母に番組を見せることはできなかった。