転職先では新境地も開けた。地方局では報道記者がドキュメンタリー番組の制作を兼任することも多い。「その頃、女性記者が社内に私だけだったので、自然に回ってきた」のが、当時珍しかったフリーランスの助産師に焦点を当てた企画。手掛けたドキュメンタリー第1作『平成助産婦革命~赤ちゃん誕生の最前線で~』は高評価を受け、斎藤さんは優秀な放送番組に送られるギャラクシー賞優秀賞を受賞。ますます仕事が楽しくなっていった。

テレビの報道記者時代、店頭に立ちながら子育てをサポートしてくれた母(右)
テレビの報道記者時代、店頭に立ちながら子育てをサポートしてくれた母(右)

無念の退社…思いもよらぬ「M字カーブ」の谷底に

 仕事も家庭も順風満帆だったが、3人目の子の育休から職場復帰した39歳のとき、想定外の「M字カーブの谷」に落ちた。夫が米国に赴任することになり、子どもたちに海外経験を積ませたいと考えていた斎藤さんは、家族5人での渡米を決めた。福島テレビに1年間の休業を願い出たが、前例がないと却下されたのだ。「最近こそ配偶者同行休業を制度化して導入する企業も増えていますが、当時はまだまだ。男女雇用機会均等法と育児・介護休業法は適用された世代の私も、この制度には間に合わなかった。10年勤め、やはり大好きな会社でしたが、福島テレビを辞めることを決意しました」

 以後、ボストンでの1年を皮切りに、夫がポストを得た東京などで計10年間の専業主婦生活を送ることに。そして地震と巨大津波が東北地方を襲った2011年3月11日が訪れた。

 内陸寄りの福島市には津波は到達せず、両親も従業員も無事だったが、仕込み蔵のタンクの一部が倒れ、完成間近の新酒が流れ出たり、瓶詰め用のラインが破損したりするなど、実家の金水晶酒造店は甚大な被害に見舞われた。地震発生以後、母から被害状況の報告を東京で受けていた斎藤さんは、震災5日後の16日、決意を胸に秘め、避難先で父に切り出した。