男女雇用機会均等法が施行されるはるか前に、大卒女子第1号として旭化成に入社した尾原蓉子さん。ファッション・ビジネスの本場アメリカへの留学で得た知見を現場で生かし、50年以上にわたってファッション産業の発展に尽力してきました。「常にpurpose(目的)を意識することで、誰も歩んだことのない道を臆せず進むことができた」と語るARIA世代の大先輩に、羽生祥子・日経xwoman総編集長がインタビューしました。3回にわたって紹介します。

(1)困難の乗り越え方を考えることは楽しかった ←今回はココ
(2)ライフシフトには働く目的と「資産」が必要
(3)リーダーは「地図よりコンパス」で道を示して

「女も男と同じように、世の中の役に立てるはず」

羽生祥子・日経xwoman総編集長(以下、――)  尾原さんは、1962年に東京大学を卒業して旭化成に入社、キャリアをスタートさせました。今も女性が仕事をするということについてはさまざまな困難がありますが、当時の状況は比べものにならなかったと想像します。そもそも、女性が外で働くということ自体がかなり珍しかった時代ですよね。

尾原蓉子さん(以下、敬称略) つい先日、私が高校時代のアメリカ留学でお世話になったAFS(American Field Service)日本協会のセミナーで講師を務めたときに、「社会に出て、最初にどんな壁がありましたか?」と聞かれたんですね。でも当時は壁という意識はあまりありませんでした。というのも、女性が働くということ自体が「ダメダメ!」の時代に、世の中と全然違うことをやろうとしていたわけですから。何をやるにも困難が伴うのはごく当然だと思っていました。

 私が仕事をしたいと思ったのは、高校時代に留学も含めていろんな経験をする中で、女子も男子と同じように世の中の役に立つことができるはずだし、役に立つことをしたい、と思うようになったからです。なんらかの足跡を残して、お墓に入るときに「ああ、私の人生はよかったな」と思えたらいいなと。

 当時、大学を卒業した女子に対する企業の求人は皆無。働くとしたら、医者や弁護士といった国家資格のある職業を選ぶしか、最低限男子と同じスタートラインに立つことはできません。でも私は大学では教養学科のアメリカ専攻でしたし、できれば産業界で、国際的に広がるような仕事がしたかった。それでたまたま縁があって旭化成に入ることができ、糸や生地などの商品開発の仕事に就きました。

「女性が仕事をするという、世の中の当たり前とは正反対のことをやろうとするのだから、何をやるにも困難が伴うのは当然のことと思っていました」
「女性が仕事をするという、世の中の当たり前とは正反対のことをやろうとするのだから、何をやるにも困難が伴うのは当然のことと思っていました」