「体が2つあればいいのに」と思った闘病生活

市原 幼稚園に年長さんで復帰するまで、足かけ2年くらい、化学療法を断続的に続けました。点滴で強い薬を入れるときは病院に泊まりこんでいました。家では次男が待っていますから、本当にあのときほど「体が2つあればいいのに」と思ったことはありませんでしたね。長男と一緒にいるときは長男のこと、次男といるときは次男のことだけ考えるように、せめてそこだけは向き合うようにしていました。あとはどちらの前でも泣き顔は見せない。それは心掛けていました。

 私は不器用で、何でも中途半端にはできないので、仕事を辞めたのは残念でしたが、ある意味で良かったのかもしれません。子どもの近くで過ごせた幼稚園の3年間は、今考えると貴重でしたね。

 病気になったとき長男はまだ4歳手前だったので、最初は嫌がって泣きわめいていましたが、途中から病気を受け入れて、それが日常になりました。どんなに痛いか分からないけれど、できるなら自分が替わってあげたいと思っていました。

「子どもながらに静かに病気を受け入れるんですよね。運命に静かに立ち向かう感じでした」。小学校6年生で2度目の再発をしたときは、次男から骨髄提供を受けた
「子どもながらに静かに病気を受け入れるんですよね。運命に静かに立ち向かう感じでした」。小学校6年生で2度目の再発をしたときは、次男から骨髄提供を受けた

―― 働き始めた頃を振り返ると、市原さんはどういう仕事観や将来像を持っていたのですか?