国際労働機関(ILO)のタイ・バンコクにあるオフィスで働き、プライベートでは米国人と結婚。2人の子どもを出産して公私ともに充実した日々を送っていた松野文香さんは30代半ば、夫の仕事の都合でドバイへ転居することに。休職制度を利用し、3年ほどでILOへ復帰する心積もりでいたが、待っていたのは予想外の長い専業主婦生活だった。

(上)国連機関でキャリア形成、30代半ばで予期せぬ長期中断
(下)厚かった再就職の壁 それでも行動し続けて道が開けた ←今回はココ

 「家族でドバイへ移ったものの夫がすぐにまた転職し、結局半年でオマーンに移りました。ここでも1年ほどで夫に別の仕事先からオファーがあり、今度はアブダビに引っ越し。アブダビ首長国の皇太子のもとで働くことになりました。そうこうしているうちに休職の期限が来たのですが、3人目の次女を産んだばかりだったんです。さすがに乳飲み子を含む3人を連れて新たな赴任地へ行く勇気はなく、国連機関のキャリアはそこで終わってしまいました

 予備知識がほとんどないまま飛び込んだ中東での暮らし自体は、持ち前の適応能力を発揮してストレスを感じることはなかったという松野さん。しかし専業主婦生活は、それまでとのギャップが大きいものだった。

 「主婦の仕事はなんでもできて当たり前で、誰も褒めてくれないですよね。子どもはかわいいけれど、子育てに逃げ場はないし、自分の承認欲求も満たされないというか……。2歳違いの3人を育てるのは本当に大変で、1日が終わると『今日もみんな、無事生きていてよかった』という感じでスイッチが切れたように寝る日々。ほとんど何も考えられなかったし、移動続きで、仕事を落ち着いて探す状況でもありませんでした

「アブダビには3年くらいいて、国連機関もあったので雇ってくれませんかと訪ねたのですが、アラビア語ができないのでなかなか難しかったです」
「アブダビには3年くらいいて、国連機関もあったので雇ってくれませんかと訪ねたのですが、アラビア語ができないのでなかなか難しかったです」

米国でようやく就業の好機が巡ってきたが

 アブダビで3年暮らした後は、夫の母国である米国へ。「最初はカリフォルニアに行って、その後はテキサスに5年ほど。子どもたちも全員小学校に入り、やっと仕事ができる! と思ったんですけど……」

 ニューヨークやワシントンDCなどと違い、テキサスには国連機関の事務所も、国際開発を行うような組織も皆無。途上国支援に関わることはもっぱら教会経由で行われていたが、特に信仰を持たない松野さんは、教会のコミュニティに加わることはしなかった。

 あるとき、日本の大手自動車メーカーの北米本社がテキサスに移動してくることになり、千人単位で雇用する予定だと知った。これは絶好の機会と幹部のアシスタント職に応募するが、結果は不採用。

 「もともと大好きなメーカーで、働く気まんまんになっていたのでショックでした。今思えば、自分で起業するとか、他にもいろんな仕事の道があったんですよね。でも私は大きな組織でしか働いたことがなかったので、そういう発想が持てなかった。そこは私の『とらわれ』だったのかなと思います」