年齢詐称じゃなくて、印象コントロールです

 女性誌を見ると、40代においては石田ゆり子さんと井川遥さんが正義、もはや日本の40女はゆり子か遥になるしかないくらいの勢いだが、先日、ショッキングなニュースが走り抜けた。

「石田ゆり子、50歳のバースデー」

 うっそー、見えない。見えなすぎる。芸能人は「実年齢マイナス10歳」くらいでテレビ画面ではちょうどいいと、美容室のヘアメイクさんから聞いたことがあるが、透明感ある癒やし系との呼び声高い石田ゆり子さんに至っては、実年齢マイナス15歳に見える。

 で、その「若く見える」の正体って、結局「若さを表す記号を備えているかどうか」なのである。

 情報の70%を視覚から取得するといわれる人間は、目に見える印象で判断する。女性誌や美容誌がさんざんアンチエイジング特集で書くように、「記号的な若さ」のためには重点パーツがあって、印象はわりと簡単にコントロールできてしまう。記号的な若さとは、肌や髪など面積の大きいパーツにおけるツヤやハリだとか、目や唇などの視線が集中するパーツのぼやけないきれいさだとか、姿勢の良さだとかその他いろいろ、テクニカルな話にすぎないのだ。

 だが、少し前の「後ろ姿は20代」なんていう美魔女ブームや、度重なる整形が雪崩を打つハリウッド女優たちが痛々しかったのは、やはり皮一枚、表面上の若さの追求は、人としての美しさとはどうやら方向性が違うからなのだろう。幼稚さと若さは別のもの。石田ゆり子さんの人気は、単に若く見えるからではない。その落ち着いたたたずまいや、本当は50歳だからこそのかわいげにみんなが憧れるのである。「老け」じゃなくて「熟れ」、物理的な加齢を哲学的な成熟に持ち込めるかどうかで、女性の輝きは変わってくるように思う。

 私たちは、他人から「どう見えるか」じゃなくて、まず自分が「どうありたいか」で進んでいきたい。他人の目にどう映るかを気にして、基準を他人に預けていた時代はもう終わりだ。着たい服を着ればいいし、なりたい自分になればいい。人の顔色や目を気にしない厚かましさは生きる強さ、それが、キャリアを積んだARIAならではの自由なんじゃないか。というわけで、私は来月もまた、美容院でイケメン満載の「いい男特集」を貪り読むのだろう。

私たちが目指すべきは「老け」じゃなくて「熟れ」。物理的な加齢を哲学的な成熟に持ち込めるかどうかで、女性の輝きは変わってくる
私たちが目指すべきは「老け」じゃなくて「熟れ」。物理的な加齢を哲学的な成熟に持ち込めるかどうかで、女性の輝きは変わってくる

文/河崎環 写真/PIXTA