「飲んだらするな、するなら飲むな!」

 Twitterでの発言で芸能人のアカウントが炎上、謝罪なんて話が一時期花盛りだった。その頃、某お笑い芸能事務所のリスク管理担当者が、「飲んだら(SNSを)するな、するなら飲むな」と芸人さんたちに懇々と言い聞かせていると聞いて、本当にそうだとかみ締めたくらいには、筆者もTwitterやらFacebookやらその他、「SNSオンザロック(飲酒しながらのSNS)」でいろいろしでかしてきた歴史がある。

 気が大きくなっているので、暴言を吐く。普通ならしないような破廉恥な発言も勢いで言い放つ。ものすごい長文を連投する。全く空気の読めていない意味不明な文字列を残して去る。なぜなのか、英語で人生哲学みたいなのを投稿する(思い出すと恥ずかしすぎて死にたい)。翌朝「うわ、なにこのテンション。頭おかしい」と自分でドン引きしたり、「やばい、こんなの書いた記憶がない」と真っ青になる。そんなことの繰り返しである。恥の多い人生を送ってきました。最近は「とりあえず無難に仕事の投稿をしよう」「とりあえず料理を撮ろう」「とりあえず笑いを取ろう」と自分に言い聞かせている(そして時々我慢できずにやっちまっては反省する)。

 仕事関係、私生活はもちろん、人間関係や闇も嗅ぎ取れてしまうのがSNS。なのになぜ、私たちはそんなものをわざわざ自発的に発信しているのだろう。それは、酒井順子さんが近著『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』(文芸春秋)で書いておられる通り、「決まり切った世界のなかで既に長いあいだ生き、自慢欲求を封印してきた中年にとって、フェイスブックは欲望を解放できる楽園」(『中年とSNS』P.25)だからだ。盛り盛りに脚色した自分の暮らしを自発的に人に見せ、「匂わせ」、私はこんなすてきな人よと自慢して他人からの褒め言葉を期待するのが、SNSの根本思想であり、正確な使用法だからである。

 インスタにせよFacebookにせよ、食べ物とか服とか花とかで埋まっているのは無害。オタク投稿も、興味ない人には鬱陶しいこと極まりないだろうけど、本人が幸せならまあいいじゃないか。みんな結局、友達だったりトキメキだったり、何歳(いくつ)になったってつながりたいのだ。つながるメディアたるSNSを手放せない私たちのメンタルには、少なくともティースプーン一杯の狂気が入っているのだろう。

「飲んだらするな、するなら飲むな」は運転だけの話じゃないんです…
「飲んだらするな、するなら飲むな」は運転だけの話じゃないんです…

文/河崎 環 写真/PIXTA