不在という穴がポッカリ、永遠に続くように思っても…

 準備するにも解決策を探るにも、最も難しいのは介護が終わるとき――別れを受け止めようとする自分自身の“気持ち”かもしれません。

 ○○ロスという言葉を耳にするようになりましたけれど、共通語でくくることによって共感を得たり、自分だけではないと孤独感を和らげたりする効果は感じるものの、そのつらい体験は自分という個体だけのもの。身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれませんが、癒やすことができるとすれば、それは時間だけなのでは……と感じています。

 詩人の谷川俊太郎さんが「友人の作曲家が時間は伸び縮みすると言った」ことを書いていらっしゃいます。「アンダンテとプレストのように音楽は実際の時間の中に、音楽自体の時間を創りだしますが、拍を持つそういう客観的な時間とは次元が少々違う、もっと軟体動物のような、柔らかいフレキシブルな時間を私たちはしばしば経験」する、と。※1

 確かに、楽しいときは時間を忘れるくらいあっという間に過ぎて、つらく悲しいときの時計の針の進みは別次元に来たかのように遅く感じることも。いつか別れが来ることを理解し、予想していても、目の前に不在という穴がポッカリと開いたとき、何をしていても悲しみが付きまとい、遅々として時間さえ進まないように感じる。そんな日が永遠に続くような気持ちにさえなるかもしれません。

 一概に、安易に、「大丈夫、いつかは癒える日が来ます」なんて言い方、私自身を振り返ってもできないのが実際のところです。でも、そんなときも時間は唯一の友達かもしれないのも、もうひとつの事実。少し、体を動かしてみる。少し、お腹がすく。少し、食べてみる。少し、眠くなる。この繰り返しをしているうちに、炎症を起こしたようにヒリヒリしていた心の粘膜が少しずつではあるけれど収まってきて、ある日、昨日よりも痛みが遠ざかっていることに気づく可能性も。「病は気から」という昔からの諺(ことわざ)、端的に言い当ててはいるけれど乱暴にも聞こえますよね。でも、心と体が連動していることは諺の通りで、体に力が戻ってくれば、植物が水を吸い上げるよう徐々に心も潤って、必要以上のマイナス要素を寄せつけなくなる体験は私にもあります。

 誰しも避けて通ることができない別れという出来事に対しては、立ち止まっても、しゃがみこんでも、思い切り泣いても、どこかへ逃避行したって構わないじゃないかと思っています。でも、そうしてる間にもしも少しお腹がすいたら、素直に食べてみる。眠くなったら、横になって寝てみる。ものすごく単純なことですけれど、自分にしか分からない単純な体のきっかけを、私はただ待つようにしています。

母の部屋には、頂き物の花など飾って寂しくないように
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母の枕元の小さなスヌーピー
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