ヘルパーさんと母。時には笑い、時には口喧嘩も

 S子さんという彼女は青森出身で、母と似たところは全くないのに、気づいたら意気投合していて、私が仕事から帰ると父の横で二人で夕飯を囲み、時には笑い、時には口喧嘩(くちげんか)までしていました。

 「えーと、なんで喧嘩してるの……?」と荷物を置かないまま、私が聞くと「だってね! ママさんが『パパ(私の父)は食べられないのに、私だけおいしいものを食べるのは嫌』なんて言うから、そんなのダメでしょ! パパさんが悲しむからって怒ってた」と。

 父は、脳内出血の手術後に肺炎を併発し、胃瘻(いろう)をしていたので経口で食事はできない状態だったのです。

 「だったら、私もS子さんに賛成だな〜」なんて言いながら、母のお皿からちょっとつまんで、食事を促したりする日々でした。

 このS子さんは10年も拙宅で暮らしてくれたのですが、ある意味、強烈な個性の持ち主。掃除や洗濯はパワフルにこなすけれど、料理は全くできないから無理、と。要介護5の父はいたわるけれど、要介護3~4の母にはなぜかスパルタ。古い映画好きの母に、自分が大好きなテレビの歌謡番組を見せながら、横で気持ちよさそうに演歌を歌っていることも。

 利用者とヘルパーさんの関係ではあるけれど、家族のような形態になっていく中で、生活面では“できることはできる人がやる”という分業制が確立して、私の作った料理を母と彼女が並んで食べてくれるような日常でした。始終、口喧嘩する相手なのに、母が弱ったりすると号泣しては母にピタッと寄り添うヘルパーさんでした。

 そんな彼女がうちを離れた理由は、もともと心臓に疾患があり、70歳で拙宅に来た自分が80歳になったから……と。引き留めたかったけれど、彼女自身の幸せを祈る以外できませんでした。

「利用者とヘルパーさんの関係ではあるけれど、家族のような形態になっていく中で、生活面では“できることはできる人がやる”という分業制が確立していきました」
「利用者とヘルパーさんの関係ではあるけれど、家族のような形態になっていく中で、生活面では“できることはできる人がやる”という分業制が確立していきました」