悩んだり、イライラしたり、日々浮き沈みする心を穏やかにしたい……。そんな悩みに、心理カウンセラー僧侶の羽鳥裕明さんが寄り添い、仏教と心理学の視点からヒントをくれるこの連載。10回目は、「ついつい悩んでしまう自分」が苦しいとき、思い切って視点を変えてみる、という方法について考えてみましょう。

別の見方をすることで、壁を突破する力がわいてくる。
別の見方をすることで、壁を突破する力がわいてくる。

 気がつくと、ぐるぐると同じことばかり考え、悩んでしまうことはありませんか? 頑張っているのにどうしてうまくいかないんだろう、あの人のことが許せない――こんなふうに「思うようにならないこと」「受け入れがたいこと」に対して苦しんでしまうときにも、仏教の教えをヒントにすると、ぱっと視界が開けることがあります。

悩みは「見方次第」で姿を変える

 仏教の基本思想である「空(くう)」という考えについては、何度かお話ししましたね。「物事や現象には本来、色はついていない。どのようにとらえるか、という自分がいるだけである」というのが、仏教の「空」の考え方です。

 例えば、出世できない、というとき。自分はその出来事に苦しめられているように思うけれど、『釣りバカ日誌』のハマちゃんであれば、「ラッキー! 自由に遊べる」というように同じ出来事に遭遇しても苦しまないかもしれません。また、「許せない相手がいる」という場合ですが、これも「許したくない自分がいる」と言い換えることができるかもしれません。つまり、自分が憎らしい相手の手をつかんで離さないから、苦しみから逃れられないのだ、というとらえ方もできるというわけです。

 このように、同じ物事や現象であっても、それを見る人によってさまざまな見方があるものですが、そう考えると、あなたが苦しんでいる悩みは、物の見方一つで大きく変わるものなのかもしれません。さて、このような教えを示すものに「一水四見(いっすいしけん)」という仏教用語があります。

 「一水四見」とは、ただの水一つをとっても、魚にとっては生活の場、人間にとっては飲み水、天人にとっては歩くことができる水晶の床、餓鬼(がき=強欲な亡者)にとっては炎の燃え上がる苦しみの血膿(ちうみ)というふうに、とらえる側の見方次第で対象はがらりと姿を変える、ということを教えてくれる言葉です。人は苦しいときほど視界が狭まって、一方向からの見方しかできなくなり、ますます悩みを深める悪循環にはまりがちです。

【ミニ知識】人の悩みに関わる仏教用語の深い意味
一水四見(いっすいしけん)
悩みがあるのが悪いわけではなく、悩みを一方向からしか見られなくなることで苦しみが増すもの。水ひとつとっても、魚にとっては住処(すみか)であり餌を求める生活の場、人間にとっては飲み水、天人にとっては歩くことができる水晶の床、餓鬼(がき)にとっては炎の燃え上がる苦しみの血膿(ちうみ)、というふうに、見る側の判断によって物事は全く違うものに姿を変えるのです。