互いに背中を流し合う「極楽湯」の秘密

 以前、読んだ本に、「地獄湯と極楽湯」という印象的なエピソードがありました。

 地獄と極楽の同じ大きさのお風呂に、同じ人数が入っている。地獄では、お湯がかかった、ひじが当たったと罵声が飛び交っているけれど、極楽では和気あいあいと楽しそう。よく見てみると極楽湯ではみんなが輪になって背中を流し合っていた、というお話でした。

 自分はただ相手の背中を流しているだけ。でも、誰かが自分の背中を流してくれている。

 誰かが見ているから善い行いをする、これは賞賛や評価を得たいがための「見返り」を求める行為です。では、人が見ていないところで誰も評価してくれないことをするのは無駄なのでしょうか。いいえ、決してそうではありません、という仏教の考えを込めたのが「喜捨(きしゃ)」という言葉です。

【ミニ知識】人の悩みに関わる仏教用語の深い意味

喜捨(きしゃ)
喜んで捨てる、と書いて「喜捨」。仏教ではどんな行為をするときにも「相手に喜ばれる」「見返りを受けられる」などと期待するのではなく、「その行為ができる」「させていただける」という事実に感謝することこそ大切だと考えます。対価が得られないことに不平不満を並べるより、「させていただける」「ありがたい」と感じることで、穏やかな心が得られるのです。

 自分が何かをしたい、と思い行動に移した時点でその行為は完結、つまり徳を積んだことになり、相手がどうリアクションするかについてあれこれ思い惑う必要はない、というのが「喜捨」という考え方

 例えば電車で席を譲ったのに断られたとき、「相手が喜ぶと思ったのに!」とムカッとしてしまいがちですが、相手がどう受け取るかは相手の自由なのだ、という価値観があれば、「そうか、相手は譲ってほしいと思っていなかったのだな」と心穏やかでいられるものです。