「正しさ」にこだわると視野が狭くなる

 「六道」とは、「天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄」の6つの世界(道)のことであり、心の中にもこの6つの世界が存在するという考え方もあります。今回はこの「六道」の中の「阿修羅」という神様のお話を取り上げたいと思います。

 阿修羅は「正義」をつかさどる神として天界に暮らしていました。阿修羅には娘がおり、いずれは力の神である帝釈天に嫁がせようと思っていましたが、その時期を待てなかった帝釈天が、あるとき力ずくで娘を奪ってしまった。阿修羅は正義の神ですから、「そんな理不尽なことは許せない」と、帝釈天に戦いを挑みます。しかし、帝釈天にはかなわず、何度も戦いを挑むうちに次第に形相が険しくなり、怒りの衝動にとりつかれてしまった阿修羅は、天界から追い出されて人間界の下に暮らさなくてはいけなくなった、という逸話があります。ちなみに、阿修羅と帝釈天が戦った場所を「修羅場」といい、怒った表情を「阿修羅の形相」などと表現します。このように、いくら正義であっても「正しさ」にこだわりすぎると、まさに阿修羅のような表情で誰かと衝突することになったり、相手を否定する気持ちにとりつかれてしまい周りが見えなくなります。心理学でも、このように一つのことにこだわりすぎて周囲が見えなくなってしまう心理状態のことを「視野狭窄(きょうさく)」といいます。

「正しい」よりも「楽しい」を選ぼう

 理不尽な相手のことが納得できない。そんな苦しみにとりつかれて心が「修羅」になったとしても、必ず救いがありますよ、というのが仏教の考え方です。それが「六地蔵」。昔話の笠地蔵もそうですがお地蔵さまは六体で1セットになっていて、「六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)」のどこにいても、六種のお地蔵さまが救いを持ってきてくださる、ということを意味しています。

 お地蔵さまに手を合わせるとき、私たちは「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」とお唱えします。意味は訳さないのですが、「カカカ」というのは一説によると笑い声を表しているといわれています。ここに、阿修羅のように「自分は正しいのに、どうして?」という理不尽さにさらされたときのヒントがあるのではないかと思います。

 自分は正しい、と眉間にシワを作ってイライラしているよりも、何が楽しいか、というところに目を向けて「笑顔」になることに救いがあるのかもしれません。こうやったらむしろ楽しいかもね、面白いかもね、という視点を持ったほうが穏やかで幸せでいられるのではないでしょうか。