嫌いな部分は自分を支えてきた「柱」

 私が僧侶になりたてのときのエピソードなのですが、そのときの私は真冬の山のお寺で2カ月間、朝から夜中まで仏と向き合う修行をしていました。実は、心の中には「このような修行に何の意味があるのか」という葛藤がありました。「仏様が、具体的にどのように私たちを苦しみから救って助けてくれるというのだ。しょせん、仏様なんて苦しみを抱えた我々人間がその苦しみを和らげるために生み出した、単なる虚像にすぎないのではないのか」と考えてしまう自分がいたのです。

 しかし、ある明け方、自分の肉体の外からか、あるいは内側からなのか分からないのですが、何かが語りかけてきたのです。「そもそも完璧な人などいない。そんな人間の苦しみや悲しみに対して一緒に泣いてくれるのは誰か、喜びに対して一緒に喜んでくれるのは誰か──?」

 完璧ではない人間同士が支え合うように生きるのがこの世の中で、人の苦しみを救えるのは、そばにいる身近な人です。そのとき、仏様がどこにいるのか、分かったような気がしました。

 そして、周囲の多くの仏様(=人々)に支えられている自分自身も、苦しんでいる人のそばに寄り添える、だからそうやって生きて行こうと決めたのです。